政治に興味を持ち始めたのも浅く、ネットで得られる情報以外にも触れたい、仲間が出来ればよいなぁと思い参加させていただきました。
志が同じ仲間というものは、普通の友人とは違う貴重なものだと思います。
食べることが大好きですが今年こそダイエットに成功したいと思っています。
仕事も一生懸命、他の活動も一生懸命楽しんでやりたいです。

8月15日18時から、提灯行列を執り行います。詳しくは添付チラシをご確認ください。
天明七年(一七八七)、天明の大飢饉が起り、米価が高騰、多くの餓死者がでた。人々は、京都所司代や京都町奉行所に嘆願したが、幕府は効果的な救済策を出さず、大阪や江戸などで打ち壊しが起った。幕府に落胆した人々は、天皇陛下に救済を求め、御所の周りを回るようになった。これは「御所帆快莫参り」と称された。
1787年6月7日、老人が提灯をかざして御所の周りを御千度を始めると、10日は1万人、18日には「飢渇困窮につき祈誓」「米穀高値になり人民困窮し難儀に至る」等祈願する7万人の御所千度参りと膨れ上がった。
この提灯行列に、後桜町上皇は、三万個のりんごを配らせ、御所の周囲の溝には冷たい湧き水を流し、人々が憩えるようにした。有栖川家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握り飯を配った。約五百の露天商も出て賑いを見せた。光格天皇の再三の指示により、6月14日、関白鷹司輔平、武家伝奏を通じ、京都所司代戸田忠寛に窮民救済の指示を伝え、7月8日、救い米五百石を京都奉行所から放出させた。
この年の秋、光格天皇は、古式を330年ぶりに復活させた形での大嘗祭を行われ、次のように御製をお詠みになった。
身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思ふばかりぞ
この御製は世情に流布し、光格天皇の評判は高まった。後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりは、ここから始まった。
また、光格天皇は、天皇号・諡号を950年ぶりに復活させた。
「おやじ」のページに以下の執筆物を追加しました。
・日本復活への道-日本精神をいかに取り戻すか―荒谷卓 対談 ジェイソン・モーガン (令和7年7月「月刊到知」より)
・敗退するグローバリスト (令和7年7月「維新と興亜」より)
・日本の戦闘者39 (令和7年7月「ストライクアンドタクティカルマガジン」より)
・日本の戦闘者38 (令和7年5月「ストライクアンドタクティカルマガジン」より)
・日本の戦闘者37 (令和7年3月「ストライクアンドタクティカルマガジン」より)
・日本の戦闘者36 (令和7年1月「ストライクアンドタクティカルマガジン」より)
・日本の戦闘者35 (令和6年12月「ストライクアンドタクティカルマガジン」より)
発育が遅れて心配しておりましたが、暦通り稲穂が出てきました。感謝。
日本における米作りは、ただ作物の生産という意味以上のものがあります。
3大御神勅の一つに「斎庭稲穂の神勅)」があります。天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊が地上に降りる、つまり天孫降臨のときに、天照大神が高天原の神聖な田で収穫された稲穂の種とともに授けられて、これを地上でも広めて民が安心して暮らしていけるようにせよ、との神勅(お言いつけ)です。稲穂を以て、この世を天国や極楽浄土のように豊かで平安な地にせよとの含みがあります。他律的あるいは死後の救済にすがるのではなく、自分達の力でこの世を天国のようにしようとする日本人のあるべき姿を示しております。
心穏やかに仲睦まじく暮らすためには衣食住が欠かせませんが、なかでも食は必需品です。そのために稲穂の種を授けられた。つまり日本の稲作は、天照大神に種を授かったという神話から始まっています。だから、日本人にとって米は特別なものなのです。御歴代天皇は、国家の統治を「食國しろしめす」と表現なさっています。人々の食をたしかで豊かにすることが国を治めることの基本であると繰り返し詔しております。日本人にとっての稲作は、個人の収益事業としての農業ではなく、共同体の生命活動、和を育む実践教育の場、先祖から受け継ぎ子孫に伝え残す文化伝統、自然との共生の実践の場としての「農」なのです。「農」を通じてこのような価値観を共有できる人を一人でも多く増やしていく。それが日本の伝統的な共同体、生き方を取り戻す道だと思います。
私の祖先に、安藤昌益という人がいます。江戸時代中期の医師で思想家でもあった人物で、農業を中心とした無階級社会を理想としていました。彼は、万物生成の創造的自然のなかで、人間もまた、額に汗して自らの運命を切拓く主体的創造者として生きることを理想とし、「天地一和の直耕」を主張していました。鍬を持って自分の力で土地を耕し、自立して生きるのが人間として正しい姿だというわけです。仏教や儒教のように教典を読んだり勉強することで徳を積むのではなく、土と交わり、一所懸命農作業に身を置くことで人は徳を積むことができる、そういう考え方です。農をやることで、人間も自然の生成活動そのものに参加できます。そうやって作った米は、自分を養うだけでなく、ほかの人も養うことにもなります。子供や年寄りなど他者の命も自らの努力で養っている事実は、社会の中核的生産者としての自負と責任を自覚し、 生きていくための自信にもつながるものです。