『椛島光政』さん
日本会議北多摩支部長として、誇りある国づくり活動をしています。
古事記のこころの小野善一郎先生から学んでいます。
『長島茂太郎』さん
日本の自然・言葉・歴史・伝統・文化・・・を学び、世の為人の為になりたいと思っています。
ホームページ:https://togethercoltd.com/
むすびの里の訪問ブログも書いて頂いています。
https://togethercoltd.com/think/musubino-sato/think-04-musubinosato-201903.html
『練木栄司』さん
大学卒業後に、浜松のピアノ工場、その後ヤマハ系列の楽器店で音楽教室運営マネージャー業務兼営業をやっていました。3歳から兄の影響でピアノを習い始め、兄はクラシック音楽家、教育者の道を歩み、私は市井の人として、音楽道を追求しています。
6年前から大学サークルの後輩である理科大音楽サークルの指導を自主的に始め、それまで指導者もなく活動していた後輩たちがメキメキ上達成長して行ったことが何よりも嬉しく、後輩たちがもっと上達成長する役に立ちたいと思っている時、導かれるように明治神宮至誠館で荒谷先生と出会い、武道と音楽道の共通性、さらに永遠の成長を目指す神道の考えに触れ「これだ!」と目が覚める思いでした。
「芸術とは無窮を究めることである」
日本画家横山大観先生の言葉のように、また「無知の知」己が何も知らないことを知り、学び続けること。むすびの里の皆さん方と共に学び続けていきたい、と思っております。
『秋山大輔』さん
秋山大輔と申します。
社会人になってから文学に目覚め、三島由紀夫を読むようになり、それに付随して憲法を勉強したり評論を書くようになりました。荒谷先生とはその活動の中で、明治神宮の憲法を起草する会で教えを請うことが出来ました。
現代日本は都市集中により明らかに歪んだ生活を人々は強いられています。むすびの里はその様な人間のライフスタイルに一石を投じることになると思い期待しておりますし、まだ熊野に行ったことはありませんが、時間を作って現地を訪問する事と、私が出来る限りのご支援をさせていただければ幸いです。
私ごとではありますが、3月に『沢田研二と阿久悠 その時代 井上堯之さんに捧ぐ』を星雲社から刊行いたします。沢田研二と阿久悠の関係性を様々なインタビュー、文献から紐解いた本ですが、三島由紀夫についても触れています。沢田研二はポール・シュレイダーが監督した映画『mishima』に『鏡子の家』の俳優志望の収役で出演しています。それに絡めて阿久悠先生は正論にも執筆していたこともあり、日本を憂えう発言をされていました。その点についても論じておりますので、お手にとって頂ければ幸いです。
人々が必要としている、肉体と精神が調和した仕事、自然から学び、本から知識を得る。肉体、精神を鍛錬する場所であるむすびの里を今後も大切にしていきたいと思います。
皆さま何卒よろしくお願い申し上げます。
秋山大輔拝
『勝眞香代子』さん
私は農林業資材製造販売の会社を営んでおります。
林業関係では植林後の鹿の食害から幼木を守る防護ネット。
幼木を囲むネットに支柱を立てるが、従来の支柱では鹿は折ってしまう。
そこでスーパーポールを考案。山での雪解けにも対応できる支柱に挑戦。
熊や鹿から成木を守る樹皮剥ぎ防護ネット。
農業関係では雑草に対して、除草剤を使わないで草刈り不要のネット。
ネットで草を抑制することで、草を枯らさず、草の根を生かし土手や畦畔の土砂流失を防ぐ。
また、重労働の田んぼの畔ぬりせずに、水漏れを防ぐ、畦板。
高齢化の労働力削減に貢献。これらの自社製品開発に挑む。
農産物を守る為にも動物の隠れ家となっている周囲の雑草除去は必至。
野生動物が中山間の里山に出て来なくて済む環境が必要。
人工林だけでなく、広葉樹の植林も願いたい。
国の補助金を個人ではなく集落での申請を呼びかけ、活用を推進、農業を支援。
私達は日本の将来の為に何かをしなければならない。
蟻の目、鷹の目を持って、人の為、世の為に働き続けたい。
と思っています。
『北島陽一』さん
福岡市出身、大学卒業後、専業エンジニアリング会社 東洋エンジニアリング(株)に入社、2017年に60歳の節目で定年退職。Five Gee 代表。
現役時代は、石油化学系のプラント輸出のプロジェクトマネイジャー職位にて世界中のプロジェクトに参画、ロシア圏、中近東(イラク、トルコ)東南アジア(インドネシア、タイ フィリッピン&マレーシア)韓国、インド、南米(べネゼイラ&ブラジル)長期滞在経験。
1990年代から始まったグローバル化渦の最前線にいた。40歳後半から日本に一時帰国する毎に古き良き時代の日本の伝統、文化、日本人の精神性やアイデンティーが徐々に失われていく状況を気づきながら、それを憂いている自分がいた。、自問自答しながら大組織のサラリーマンでは何もできな自分を看過していた。
60歳の定年を区切りに、微力ながら日本の将来の為、次世代の若者たちに何かを残すことに奉仕したいという想いが強くなった。
喫急の課題は以下の認識である。
主権の回復、自主防衛(9条二項の改正)、戦後の歴史史観からの脱却、教育改革、少子化対策、シニア層の活性化、地方分権化、「日本国の死」からの速やかな回避行動、GLOBAL金融資本からの脱却化、外国籍社会との共存共栄化(ディスポラ問題含む)、地域コミュニティーの促進、国内農業の保護(食の安全確保)である。
政治が一番改革が必須であるが、これが一番の難題、国民の政治への関心度が深まらない限り、政治も変わらない。
座右の銘「温故知新」
近代史で尊敬する人物:秋山真之氏、樋口季一郎氏
趣味:散策、一人旅、海(マリンスポーツ)、山(アマゾン探検、ギニア高地等)、渓谷歩き、人と違うことを考える事。カウンターで板前さんとの会話。
『矢作直樹』さん
昭和31年横浜市に生まれる。
3歳のときに家族で湘南の辻堂に引っ越す。この地で海や野原で腕白坊主として育つ。
10歳のときに東京都町田市に引っ越す。海がなくなったかわりに山に囲まれた自然豊かな田舎で山登りをはじめる。
昭和50年東京を離れて金沢大学医学部に入学。山登りがエスカレートし、プロの登山家をめざす。
昭和54年3月、北アルプス白馬岳から槍ヶ岳を越えて南岳までの冬季単独縦走の途上、鹿島槍北峰から北壁を1,000m墜ちるも奇跡的に生き延びる。大町まで下りて体勢を立て直し、引き続き烏帽子岳~南岳を踏破した。
昭和54年12月再度、鹿島槍から槍ヶ岳までの厳冬季単独縦走を試みるも、針ノ木岳で100m滑落し、右膝を強打し、登高に支障をきたしたために下山。バス停のある扇
沢まであと少しのところで「もう山にはくるな」という声が聞こえた。憑き物がおちたように山への意欲が消え失せ山登りをやめた。
昭和56年大学卒業後、麻酔科を皮切りに救急・集中治療、内科、手術部などを経験する。
平成11年東京大学大学院新領域創成科学研究科教授、同工学部精密機械工学科教授兼担。
平成13年より東京大学大学院医学系研究科救急医学分野教授および同医学部附属病院救急部・集中治療部部長。
平成28年3月31日、任期満了退任。平成28年4月(株)矢作直樹事務所を開業。東京大学名誉教授。
公式ウェブサイト:http://yahaginaoki.jp/
Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/矢作直樹