【連載】
《記事抄》
荒谷 「惟神(かんながら)の道」という言葉があるように、日本は縄文時代からずっと神々と暮らす生活ぶりというものが続いています。惟神の道とは、あるがままの宇宙、あるがままの地球、あるがままの自然を認めて、その中で生きていこうという決意のことなんです。その時に、人間は宇宙全体、あるいは自然全体を知り得るかというと、もちろん知り得ないですよね。けれども、あるものはあるわけです。言い換えれば惟神の道とは、人間が知り得ないものであっても、「あるものはある」と認めて生きていくことを覚悟するということです。日本人が「言上げ」しないのは、言語化できないものはそのままにしておくという感覚的認識からきているように思います。
人間が小集落で生きていくうえで最も大きな影響を与えるのは住み着いた土地であり、日本人はそれぞれの土地と一体化していくことを選んだのだと思います。それが人類最古の土着文化を生んだのであり、そして土地というものが持つ、言語化できないエネルギーのようなものを産土神(うぶすなのかみ)としてお祀りしたわけです。土地によってエネルギーや性質は違うので、それぞれの集落ごとに産土神様がいらっしゃって、その神様とともに生きていくという暮らし方を日本人は選び取ったのだと思います。
宗教や科学というのは言語化できるものですが、それは日本人からすると買い被りだと思います。人間は宇宙の歴史も知り得ないし、それどころか地球のことも生命のこともよく知らないはずなのに、それを言語化した分だけしか信じないという態度は、日本人的感覚からすると狭隘な感じがします。間違っていないとしても、それはごく一部にしか過ぎないのではないかという感じがするんですよね。
日本人の場合、その土地の神様というあるがままの自然を崇めてともに生きていくということを大事にしてきたのだと思います。
荒谷 日本のお米の歴史を神話的に遡れば、斎庭(ゆにわの)稲穂の御神勅というものがあります。天照大御神様が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に直接、「高天原に聞し召す斎庭の稲穂をあなたに任せますから、これを広めなさい」ということでいただいたのがはじまりです。
この斎庭稲穂の神勅によって、日本国中で栽培される稲は、ことごとく「天照大御神からの授かりもの」という位置づけになります。私たち民は、その稲を栽培するわけです。そして私たちは、その稲から成るお米を日々いただきます。つまり、米作りは「神とその暮らしを、私たちが地上(日常)で、そのまま現そうと努力する」ことです。これが「随神の道」です。
また、米作りは「私たち一人一人の努力によって、この世を高天原(天国、極楽浄土)にする」ことなのです。これはとてもポジティブな生き方ですよね。死後に救済されたいとか天国へ行きたいということではなく、今生きている社会を自分たちの力で極楽浄土にしようということですから。だから、日本人にとってお米を作るというのはそういう意味が本来的にあるわけです。そして、天皇様のご使命は代々「しろしめす」ことですが、「おすくに(食国)しろしめす」という言い方をしますよね。つまり、お米を広めることとしろしめすこと、そして国民の気持ちを知って祈るということを一緒にされているわけで、それが尊いんです。ですから、日本人にとって稲作というのは単なる産業の一部ではないと理解していいのではないかと思います。
荒谷 我々は大きな課題を背負っていまして、グローバル資本主義の下で、日本という国も、それから日本人一人ひとりも荒廃してしまっているので、それを立て直さないといけない。そのためにはもう一回社会性を取り戻さないといけないのですが、グローバル資本主義の原動力である人・物・金の流動性は、社会を解体する原理でもあります。流動化していると社会を形成できないので、土着性が必要になる。だから、土着性と社会性というのはある意味でワンセットです。そして土着性のある社会を運営していくためには、衣食住を他に依存しない自立が必ず必要になってきます。
そこで、農というものが自分たちの生業として不可欠なものになってくるんです。しかも、ただ食べ物を生産するということでなく、その中に先祖の知恵や教え、それから先祖が社会に込めた思いや価値観などを、稲作を通じて我々は再認識するべきではないかと思います。そこに新しい日本が誕生する可能性が生まれ、それがこれからの世界の新しい潮流につながっていくだろうという気がしています。
