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学び

サザンカが山を彩る季節になりました。

さて、私の熊野での生活は、山仕事から始まりました。
山仕事の先生は、同じ自治会の滝爪さん(72歳)。
滝爪さんから学ぶ日々の仕事は、人間が自らの体験を得て身につけた叡智の塊です。
今日は、薪ストーブのための薪置き場を作るため、杉の木を縦半分に引き裂くやり方を教えてくれました。

以下は、次に出版予定の私の著書の一部です。

子供のころ、私は勉強が嫌いで、授業中も落ち着きがなかったので、小学校でほぼ毎日廊下に立たされていました。しかし、廊下に立たされると、これ幸いとばかり、そのままどこかへ行っちゃうものだから、今度は職員室で正座です。ですから、職員室では教職員並みに『顔』はよく知られていました。
中学校でも相変わらず授業に飽きて勉強に集中できず、よく先生の拳骨(げんこつ)を食らいました。
楽しみは山、川、田んぼでの遊び。遊びといっても、ワラビ、ゼンマイ、フキ、ミズ、ボンナ、セリ、タケノコなどの山菜採りや、クリ、クルミ、アケビ、サルナシなどの果実、川ではドジョウやエビ、ヤツメウナギ、ナマズなどを捕まえて夕食のおかずにするのです。
学校の行き帰りは、人の庭に生えている柿やブドウ、ナツグミ、スモモなどを収穫し、食べながら通学するのが日常でした。
祖父の畑仕事の手伝いも楽しい日課でした。祖父と自然から多くのことを学べるからです。専業農家ではないので畑は小さかったけれども、大根、人参、茄子、白菜、サヤエンドウ、キャベツ、トウモロコシなどの野菜はもちろん、イチゴ、ウリ、スグリ、クコ、イチイなどの果実もいっぱい実り、いつでも食べ放題でした。家の汲み取り式便所から肥やしを桶(おけ)に汲んで畑にまいたり、野菜についた昆虫は採集して、虫カゴで育てて観察しました。
ニワトリとウサギの世話は私の仕事でした。ストーブに使う薪はノコギリで斬ってナタで適当な大きさに割ります。男児としての尊厳を守るため、たまにする喧嘩も大事なことでした。
これらのすべてに「学び」がありました。その時々に目的を持って自由に考え、工夫し、試した結果を自分で確認し、それを改善して再び挑むことで、自分の成長を実感することができるのです。
他方、学校の教育では、特定の人為的尺度、つまり試験やテストの成績で成長を評価されます。
テストの正解だけが絶対的価値を持ち、それ以外の答えはすべて誤りとされます。成績が悪いと、人間として劣っているのかのようにみられることもあります。
このような環境では、知識の蓄積はあっても人間としての成長を感じることはできません。決められた答え以外は間違いとされる監獄で暮らす囚人が、模範囚となるためにせっせと正解といわれるものを覚える努力をしているようなものです。これでは、どんどん自己を失い、人間本来の内面の成長が置き去りにされてしまいます。
これは、「憑依(ひょうい)」という状態に似ています。一般的には、取り憑(つ)くのは、おどろおどろしい悪霊や霊媒と思われがちです。しかし、本来は、自己の本来の意思を何者かに乗っ取られる状態です。
現代人は、啓蒙という価値観の強要教育によって、また何者かに支配されたメディアの情報によって、本来の自己意思による思考や判断力を失い、与えられた価値観に思考や判断が支配されているように思えます。
自ら体験し考えて確かめた尺度によらず、ほかから与えられた尺度に依拠(いきょ)した思考や行動は、まさに現代特有の自己喪失した「憑依」状態だと思います。
とはいえ、与えられた価値観と思考方法を身につけなければ、学校のみならず役所や会社の評価が下がってしまうので、多くの人は自らすすんで「憑依」を装います。そしていつの間にか自己の主体性を放棄することになってしまいます。私もまた「こんなことを覚えてどうするんだ!」と思いながらもいやいやながら勉強を続け大学に進みました。
気候風土や歴史伝統文化、つまり人間の叡智を無視した社会思想や法制度、利便性だけを追求する生活環境、マネーに縛られる価値通念に疑問を持っていた私に転機が訪れたのは二〇歳のころでした。
それは、成田闘争と三島由紀夫でした。成田闘争では、政府と戦後保守はマネーと法制度を理由に、左翼は主義思想を理由に、先祖が開拓し継承してきた共生の農地を守りたい農民の意思をまったく無視して実力で踏みにじりました。
三島由紀夫は、このような外来保守と外来左翼を厳しく批判し、「文化防衛」を主張しました。最近は、外来種生物が、自然環境を破壊しているとして問題視されていますが、いちばん問題が多い外来種生物は、外来思想に憑依された日本人です。
一人ひとりの人間が主体的に生きるためには、自分の体験と思考を元に成長していかなくてはなりません。現実には、私たちは社会集団として生活していますから、社会集団としての体験と思考は慣習として継承されます。これが、伝統・文化(ローカル・スタンダード)と言われるものです。
私は、グローバル・スタンダードといわれる尺度や規範に従って生きるのではなく、自らの学びと経験から尺度と規範を見いだし、自分がどう生きるべきなのか、社会はどう在るべきなのかを真剣に考えようとしたのです。
そう決意したとたん、今までの自分が、なんと主体性がなく、思考の自由がなく、他律的で勇気がなかったかを理解することができました。

今、私は60歳を間近にして、本当の日本人としての「学び」に、日々、幸福を感じています。

おまけ

はやした木の枝にセッコクが生えてました。
きれいな花を咲かせるよう大事に育てます。