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女性天皇と外戚政治―愛子天皇擁立は日本の消滅を意味する

国体を維持するうえで、最も重要な問題が皇位継承である。そもそも、皇位継承を含め御皇室の諸事は、本来、天皇と御皇室がお決めになることであり、臣民が関与すべきものではない。

皇位継承に限らず、日本の文化は「家」によって保たれてきた。文化人類学的にも日本の家族構成は父系家長制縦型家族に属し、家の継承は家長たる男子が決定すべき事項であった。日本の家において女性が家長になることは基本的にはない。ましてや国を持って家と為す国家の家長たる皇位継承において、女性が皇位につくなどということはあり得ないことであった。

こうした皇統の伝統的決まりごとに危機が訪れたのは、皇紀千二百五十二年十一月三日蘇我馬子による崇峻天皇弑逆事件である。天皇が「蘇我馬子は内に私欲を欲しいままにし外は偽り。如来(仏)の教えを興すといえども誠に忠義の情なし」と詔するほど、渡来宗教である仏教に囚われ尊皇の精神を失い、渡来人(東漢)を使って崇峻天皇を弑逆し寶御位まで奪おうとした蘇我氏の台頭であった。蘇我氏が権力を手に入れるために取った手段が、「娘を天皇の后に入れ、その子を天皇にし、外祖父として権力を握る」という外威政治である。

これによって、男系男子の天皇が継承してきた伝統的皇位継承が断絶し、女性天皇(推古天皇)が即位した。日本の歴史を変える大事件であった。幸い、後に男系男子天皇が即位したことによって皇統の断絶は回避したものの、日本の父系家長制という伝統的習わしは破られ例外を認めざるを得なくなってしまった。

この奸臣によって天津日嗣の皇統を犯した女性天皇の悪例が、その後も奸臣によって屡々悪用され、天皇の権威を犯し権力を悪用することに使われた。

父系が変われば王朝が変わることになる。したがって、女系天皇は皇統断絶になることは言うまでもないが、これまでの日本の歴史上、女性天皇も権力を握らんとする奸賊による皇統の危機であることに変わりはない。

では、一つ一つ女性天皇の歴史を振り返ってみよう。最初の女性天皇である推古天皇即位は、第32代崇峻天皇を殺害した蘇我馬子によって為された日本の歴史をかえる政変であった。日本書紀に記されている「天皇弑逆事件」である。仏教を使って権力を拡張してする蘇我氏の邪心を警戒した崇峻天皇を、蘇我馬子が、現在の奈良県高市郡に拠点をおく中国系渡来人東漢氏を使って暗殺したのである。すでに、政敵で崇神(廃仏)派である物部守屋達を滅ぼし権力を独占していた蘇我馬子は姪にあたる(推古天皇の母は蘇我馬子の姉にあたる蘇我堅塩姫(きたしひめ)、祖父は蘇我稲目である)推古天皇を天皇にたてた。

次の女性天皇は、第35代皇極天皇、そして重祚して第37代斉明天皇である。本来、皇位を継承すべき聖徳太子亡き後は「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これからだれを頼みにしたらよいのだろうか」皆が悲嘆にくれるほど、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷が権力を独占し国政を欲しいがままにしていた。天皇にしかできないはずの紫冠を我が子である蘇我入鹿に授け、その入鹿が、蘇我氏の血を引く皇極天皇を擁立するため有力な皇位継承者である聖徳太子の子・山背大兄王を攻めた。山背大兄王は、蘇我氏と戦をして民百姓に迷惑をかけることを避けるため「戦って勝ったからと言って大丈夫といえようか。我が身を捨てて国を固められたら大丈夫と言えるのではないか」として皇位継承争いをせず妃や一族共々自害された。このような経緯で皇極天皇が二人目の女性天皇に即位する。

皇極天皇の御代に、皇位までを奪おうとする蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が誅殺する。これが「乙巳(いっし)の変」である。蘇我蝦夷も自害し、蘇我氏の権力は衰える。そこで、このような私利私欲で権力を勝ち取ろうとする豪族を排除するため皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位して「大化の改新」を断行する。豪族の私有財産や私民(奴隷)を廃止し、すべての土地は公地とし、すべての人を公民として差別をなくした「公地公民制」を制定。地方で私権力を行使して富を独占できないようにした「国群制度」の制定。公地を公民に平等に分け与えた「班田授受の法」の制定。役人が勝手に税や労役を負担できないようにした「租庸調制度」(最大税率は4%)の制定。このような政策を遂行するために、蘇我氏の権力にぶら下がっていた東漢氏等渡来人の多い奈良を離れ、都を大阪の難波に移し天皇中心の政へと移行した。孝徳天皇崩御の後、都を奈良の飛鳥に戻すにあたり、本来皇位を継承されるべき中大兄皇子(第38代天智天皇)は、実政を執り行いつつも、いまだに残る蘇我氏の影響を警戒して皇極天皇が重祚し第37代斉明天皇として即位された。

次の女性天皇は、第41代持統天皇である。天智天皇の皇女(鵜野讃良皇女)で母方は蘇我氏、祖父は蘇我倉山田石川麻呂であり、天智天皇から皇位を継承した天智天皇の皇子・第39代弘文天皇とは異母兄弟である。12歳で叔父にあたる天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となられる。

大海人皇子は、天智天皇の御代に皇大弟を辞され、保有していた武器をことごとく公に納め出家して吉野に下った。皇位継承にあたり、弘文天皇から嫌疑をかけられていた鵜野讃良皇女は大海人皇子に従って吉野に入った。

天智天皇崩御後、大海人皇子は、「壬申の乱」をおこし、天智天皇から皇位を継承した天智天皇の皇子・第39代弘文天皇を排して皇位についた。その壬申の乱のときから政治について助言をしていたのが大海人皇子(後の天武天皇)の妃であった持統天皇である。

天武天皇が即位されると、鵜野讃良皇女は第40代天武天皇の皇后となり、大臣を置かずに天皇・皇后及び皇族の諸王による親王政治をとられる。はじめは、天武天皇の第3皇子(母は太田皇女)大津皇子が朝政をとるようになる。天武天皇14年頃から天皇が病気がちになると皇后(持統天皇)とその子・草壁皇子がともに天皇に代わって政務をとられた。天武天皇崩御の翌月、大津皇子は謀反の疑いで逮捕され自害された。これで、皇位継承者は草壁皇子となるが皇后が称制して政務をとる。3年後、草壁皇子が死去し、皇后が天皇に即位され、孫の軽皇子(第42代文武天皇)に皇位を継承する。

持統天皇は、弘文天皇を排し天武天皇を皇位につけ、天武天皇から大津皇子を排し我が子・草壁皇子へ皇位継承を企て、皇子死去につき孫の軽皇子(第42代文武天皇)に皇位を継承した。外威政治ではないが、私欲を皇位継承に及ぼしたことには変わりがない。

次の女性天皇は、第43代元明天皇である。持統天皇の異母姉妹(祖父は同じ蘇我倉山田石川麻呂)であり、持統天皇の皇子草壁親王の正妃であり、先代文武天皇の母である。この御代に右大臣藤原不比等が権力を握り事実上の最高権力者として政務を取り仕切った。藤原不比等は「乙巳の変」で功績のあった中臣鎌足の子である。鎌足は、天智天皇から藤原の姓を賜ったが、持統天皇に取り入った不比等は文武天皇の御代に藤原姓を名乗れるのは不比等に限られることとした。これが藤原公家のはじまりとなる。また、娘宮子を皇族以外の出身者として初めて入内させ文武天皇の「皇夫人」とし、第45代聖武天皇を出産した。藤原氏による外威政治のはじまりである。元明天皇は聖武天皇への中継ぎの為の天皇であった。

その次の女性天皇は、元明天皇の娘・第44代元正天皇である。草壁親王の皇女であるから男系女性天皇である。祖母は持統天皇である。元正天皇は、聖武天皇へのさらなる中継ぎ役として母元明天皇から譲位され皇位につかれた。

第45代聖武天皇は、初めての皇族以外の出生の藤原宮子を母とし、皇后もまた非皇族藤原不比等の娘で母の異母妹の藤原光明子を皇后に立てる。これに反対した天武天皇の孫の長屋王は不比等の息子たち藤原四兄弟から自殺に追い込まれる。持統天皇から文武天皇、元明天皇、元正天皇までは、藤原氏による外威政治を確立する基盤を作ってしまったことになる。大化の改新で公地公民制度を制定し貧富の格差をなくしていたのだが、藤原氏が政治権力を握るとともに、墾田を私有財産化する「墾田永年私財法」が制定され荘園が発生し貧富の格差が広がっていく。

聖武天皇以降は、藤原一族が萬世一系だけは保ちながらも皇位継承に大きくかかわっていく。六人目の女性天皇第四六代孝謙天皇がまさに藤原家外威政治のはじまりである。母が史上初めての非皇族光明皇后であり、史上初の女性皇太子からの即位である。これ以降、藤原氏の後ろ盾がない皇子の即位は期待できなくなった。そして、これを真似て平氏やと徳川といった時の権力者が娘の入内を通じて皇位継承に大きくかかわるようになった。孝謙天皇は、藤原仲麻呂の強い推挙により仲麻呂の私邸に住居しておられた大炊王(後の四七代淳仁天皇)を立太子させ、史上初の女性太上天皇となる。

しかし、即位した淳仁天皇が、寵愛する道鏡と孝謙上皇との関係を非難すると、「今の帝は常の祭りと小事を行え。国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告され、上皇が天皇の権限を取り上げてしまった。さらには、軍を動員して淳仁天皇に廃位を宣告された。

淳仁天皇廃位と同時に、上皇は重祚され第四八代称徳天皇として即位される。淳仁天皇は逃亡を図るが捕まり崩御される。暗殺説も根強い。称徳天皇は、道鏡を法王とし、称徳天皇と法王道鏡の二頭体制が確立した。さらには、道鏡を皇位に就けるという事態まで発展した。寵愛した男を天皇に就けるという女性天皇ならではの大事件であった。幸い、称徳天皇が崩御し道鏡が失脚、皇位継承は四代さかのぼって天智天皇の系統である第四九代光仁天皇が即位された。

7人目の女性天皇は、徳川3代将軍家光の時世、第百九代明正天皇である。母は二代将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子である。秀忠の外孫が天皇として即位されることが期待されての政略結婚である。しかし、幕府の朝廷統制を確立した「禁中並公家御法度」に不服従を決めた第百八代後水尾天皇は、これを無視し慣例通り十数人の僧侶に「紫衣の着用の勅許」をお与えになった。これに対し幕府は「幕府の法度は天皇の勅許より優先する」ということを明示した。後水尾天皇は、この紫衣事件や無官の春日局が参内するなどの御皇室の慣例を破る所業に抗議し、明正天皇に譲位して上皇となり院政を敷かれ幕府と対立した。これによって、明正天皇が朝廷において実権を持たれることはできなくなり、秀忠の外威政治の思惑はつぶされた。

最後の女性天皇は、第百十七代後桜町天皇である。この天皇の即位は、幕府と癒着していた摂関家による政略であった。

先帝第百十六代桃園天皇に仕えた尊皇論者の若い公卿達が、幕府と摂関家による朝廷支配に憤慨し、山崎闇斎の垂加神道を奉じる竹内式部に桃園天皇に直接御進講することを進めた。これに対し、自らの保身の為、朝幕関係悪化を憂慮した摂関家が、これら天皇側近の若手公卿達を追放処分し(宝暦事件)、さらに、幕府にも諮らずに五摂家の当主らが協議し、すでに皇位継承が決まっていた英仁親王(第百十八代後桃園天皇)の中継ぎとして後桜町天皇を擁立することに決めたのであった。この摂関家は、藤原不比等に始まり、藤原道真に最盛期を迎え、天皇三代にわたり外祖父として天皇に代わって政務をとり摂関家として朝廷の実権を握った。その影響力は徳川幕府でも存続し、昭和天皇の母貞明皇后まで続いた。

日本の歴史において女性天皇を擁立する時は、こうした不敬な奸臣の悪略が背後に働いてきた。

現状はどうか。まず前提として考えておかなくてはいけないのは、米軍占領下の基本方針として米国および極東委員会には天皇制廃止論があったことだ。しかし、現実には昭和天皇はそのまま在位した。これは、日本政府の力により国体護持ができたからではない。マッカーサーが昭和天皇との会談でマッカーサーの日本統治に天皇が全面的に協力することを確認した上でマッカーサーの日本統治の為の「天皇利用」に舵を切ったからだ。そしてそれは予想以上の効果を得た。昭和天皇のマッカーサーに対する好感はそのまま国民のマッカーサーに対する好感となり、さらには米国に対する好感として定着した。天皇をうまく使えば、日本の管理は容易にできることを知った米国は、さらなる手段に踏み切った。米国による外威政治である。もちろん、米国人を后にすることはできないが、米国に忠誠を誓う日本人を使うというやり方だ。「愛子天皇擁立」がそれだ。

まず、雅子妃の父小和田恆氏とは何者かを知る必要がある。外務官僚時代の主な業績は、ハーバード大学ロー・スクール客員教授に就任し一家で渡米している間、日本電信電話公社(現:NTT)の物資調達解放をめぐる日米交渉(1978年)で、ストラウス合衆国通商代表から交渉の根回し役に指名され、米国の強引な要求を日本側に飲ませる立役者となる。創価学会池田大作のアジア諸国訪問の際、創価学会の事務総長原田稔から当時の外務省官房長の小和田氏あての依頼(1988年)に便宜供与を図った疑惑が国会で追及される。事務次官時代には慰安婦問題に関し法的には解決済みである事実をあえて無視して謝罪と賠償の方針を決め、当時の宮沢喜一首相に進言して「慰安婦」動員過程の強制性と日本政府の関与を認めた「河野談話」(1993年)を発表することになる。同じく外務次官任期中の平成4年、小和田氏が加藤紘一官房長官(当時)に「国内は(陛下が)訪中され新しい日中関係の意義づけをしていただくべきというのが大勢」「国際的には(天安門事件で)厳しかった中国に対する論調が、日本も努力して中国を孤立させるべきでないというコンセンサスになった」と説明し天皇訪中が「問題になることはないであろう」として天皇初訪中(現上皇陛下)(1992年)を主導した。この後、長女雅子が皇室に入内した。(1993年)。外務官僚が宮内庁侍従長のポストを占有するようになったのもこのころからである。慣例により、皇太子妃の実父という立場上公職などから離れるよう周囲から意見されるも、意に介さず国連日本政府常駐代表(特命全権大使)や財団法人日本国際問題研究所理事長、世界銀行総裁特別顧問、国際司法裁判所所長など数々の要職を歴任する。昭和34年に吉田茂が従米政策の肝いりシンクタンクとして立ち上げた日本国際問題研究所理事長時代には、米国の冷戦後の新たな日本の間接統治を進める枠組みを形成するため日米トラック2協議等を盛んに開催するなど、日本側の中心的な役割を果たした。2001年3月28日、 サンフランシスコにおいて国際問題研究所とCSISパシフィックフォーラムが共催した「日米安保セミナー」では、「日本国民は日米安保について無知で無関心であり、日米同盟を積極的に支持するようなコミュニティー(メディア、政治家、官僚等)を早急に形成し、甘やかされた子供のような国民の心理状態を正していく国民運動を起こす」と発言している。彼の影響力は大きく、その後、日本のメディアや政治家及び官僚界において親米的言論が力を増すことになった。国際司法裁判所所長時代には、米国によるコソボ独立を国際法違反には相当しないという判決を下す一方で、ドンバス3州のウクライナからの独立に際してはプーチン大統領を犯罪者として国際指名手配することに動いた。

このような父小和田恆氏を敬愛する雅子妃は、皇太子妃時代は、体調不良と称して皇室の祭事はほとんど参加せず、他方オランダに住む父のもとへはたびたび娘愛子を連れて訪問旅行をしていた。皇后となられた雅子妃に対する内部からの苦情はいくつもあるが、例えば、春秋の園遊会では、上皇陛下までは、お待ちになっている参列者を気遣って定刻より早くお出ましになったということだが、雅子妃は平気で定刻より遅れて天皇陛下まで待たせて参上するという。

CIAエージェントの正力松太郎や皇居に忍び込み昭和天皇の私生活を盗み撮りして名を挙げた逆賊渡辺恒雄の経営する反日朝敵の読売新聞が新聞広告として「愛子天皇要望」などを掲げた。米国および親米売国奴らによって不敬なメディアが秋篠宮家や上皇后陛下に対して不敬発言を繰り返し、天皇陛下以上に雅子妃や愛子親王を取り上げるメディアプロパガンダが異常に目につく。絶対多数をとった高市総理は、早々皇位継承問題に触れ皇室典範を見直すという。このような動向が皇統廃絶に向けて為されていると危機感を覚えるのは私だけではあるまい。 

GHQによって皇籍降下された旧宮家を皇族として復帰させるのであれば、なにも愛子親王の婿に限る必要などない、皇族としての資質に欠ける方以外は全て復帰していただけばよい。よりによって、父が外務省関係でグローバル金融勤務者がピンポイントで婿の候補に上がってくること自体がおかしいではないか。5代までさかのぼって皇位を継承した継体天皇の御事例を参考にすれば孝明天皇の世継ぎ迄御皇室に復活できる。皇位継承は天津日嗣として皇祖皇宗の御霊が宿られる皇孫でなくてはならぬ。私事を一切捨て国民を「しろしめす」ことに御専念あそばされる御覚悟をされ皇祖皇宗と一体となって寶御位に臨まれるのだ。悪意ある民間人の皇位継承議論は即刻廃止し、上皇陛下、今上陛下、秋篠宮殿下、悠仁親王に万事お任せする以外の選択肢などあってはならない。