佐賀県吉野ヶ里町在住の吉田雅孝と申します。荒谷先生のご活動は、參政党の神谷氏等の動画等で、二年程前から存じ上げて居りました が、本年九月に東京有明で行はれた、「WHO糾弾・ワクチン反対」デモでの荒谷先生のお話をお聞きし、また、ご著書の「日本の戦闘者」を拝読し、大変感銘を受け又、先生が、19連隊にて勤務されておられたのを知り、勝手に何かのご縁かと考へ、「熊野飛鳥むすびの里」のHPを検索したところ、「仲間募集」の欄を見つけ、応募させて頂きました。
以下、自己紹介です。(成るだけ詳しくとの事ですので、冗長ご容赦下さい)
1 昭和27年8月8日生(辰年満72歳) 長崎県佐世保市出身
2(1)昭和45年9月 陸上自衛隊相浦駐屯地へ2士入隊、後期教育は、横須賀武山駐屯地。
(2)新隊員教育終了後、福岡駐屯地第四師団武器隊に配属され、昭和57年まで勤務。この間、師団武道大会(銃剣道三段・直轄部隊)出場や、大東流合気道(五段)・英信流居合道(二段)・剣道(初段)等も稽古しておりました。先生のご箸書にあるやうに、当時は19連と16連、直轄では四偵が強かったと記憶しています。また、居合いは、駐屯地の倉庫のような道場で、大東流は正門脇の道場で稽古していました。また、当時は夜間高校や大学への通学が奨励されており、小生は恥ずかしながら高校を中途退学していたため、下大利に在った筑紫中央高校と、福岡市大手門に在った福岡大学商学部を、部隊の皆さんの助けを戴き、卒業することができました。その中に、19連1中に勤務していた、伊東彰男3曹と今田和彦士長がいましたが、若しかしたら、先生も19連に勤務されておられたので、ご存じかと思い付記しました。その後、恐らくは先生と入れ替りくらいで、北海道島松の北方武器隊へ転任。
(3)北武勤務時代は、後日ルワンダ難民救助隊隊長として活躍された、神本中隊長の元で3年間勤務し、中隊全員での洞爺湖マラソンや、千歳日航マラソンなどで楽しみ、部内幹候合格により、妻子を佐世保の実家に移し、幹候校入校。
(4)卒業後、真駒内11武器へ転任。真駒内においては、雪祭りの雪像作りや羊ヶ丘公園周辺での50kmスキーマラソン等、北海道を楽しみました。
(5)平成5年、目達原西方武器隊へ転任。以後、二・三の部隊に勤務し、平成18年に定年退職した後、67歳まで民間会社にて勤務。
(6)自衛隊退職後は、詩吟・漢詩作りを趣味にしておりますが、運動からは遠ざかっております。
以上、先生が、19連で勤務された事を知り、勝手に近親感を覚え、長々と駄文を並べ、誠に申し訳御座いません。
何卒宜しくお願ひ申し上げます。