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月: 2019年3月

【仲間の紹介】 秋山大輔さん

『秋山大輔』さん

秋山大輔と申します。
社会人になってから文学に目覚め、三島由紀夫を読むようになり、それに付随して憲法を勉強したり評論を書くようになりました。荒谷先生とはその活動の中で、明治神宮の憲法を起草する会で教えを請うことが出来ました。

現代日本は都市集中により明らかに歪んだ生活を人々は強いられています。むすびの里はその様な人間のライフスタイルに一石を投じることになると思い期待しておりますし、まだ熊野に行ったことはありませんが、時間を作って現地を訪問する事と、私が出来る限りのご支援をさせていただければ幸いです。

私ごとではありますが、3月に『沢田研二と阿久悠 その時代 井上堯之さんに捧ぐ』を星雲社から刊行いたします。沢田研二と阿久悠の関係性を様々なインタビュー、文献から紐解いた本ですが、三島由紀夫についても触れています。沢田研二はポール・シュレイダーが監督した映画『mishima』に『鏡子の家』の俳優志望の収役で出演しています。それに絡めて阿久悠先生は正論にも執筆していたこともあり、日本を憂えう発言をされていました。その点についても論じておりますので、お手にとって頂ければ幸いです。

人々が必要としている、肉体と精神が調和した仕事、自然から学び、本から知識を得る。肉体、精神を鍛錬する場所であるむすびの里を今後も大切にしていきたいと思います。

皆さま何卒よろしくお願い申し上げます。

秋山大輔拝

むすびの里武道教室スタート

むすびの里武道教室は、3月6日(水)からスタートしました。

稽古初日、雨の中、子供クラスと大人のクラスそれぞれに、入門希望者と稽古体験希望者がおいでくださり、誠にありがとうございました。

稽古は以下のとおり開催していますので、ぜひ多くの方にご参加いただきたく存じます。

毎週水曜
15:30~16:30 子供武道教室
17:30~19:00 大人武道教室

前日の演武会の様子は、吉野熊野新聞(3月9日)に掲載されました。

以下、「サムライ精神を復活せよ」の第2章「中心と循環と産霊(むすひ)」より抜粋

「欧州の人々は、合気道のような他人を傷つけない武道、敵に戦いを放棄させるよう促す鹿島神流の技や『活人剣』という考え方が存在することに驚きます。」
これは、欧州の武道家の言葉です。私自身も、いろいろなマーシャルアーツを訓練しましたが、その目的はすべて「殺傷」です。
これとは反対に日本武道の究極的な目的の一つは、相対する者どうしが、お互いの戦意を鎮め、共生の道を探ることであると私は考えています。
もちろん武術としては相手を倒し、殺傷することのできる技術を修得するわけですが、その目的は相手を殺傷し排除することではなく、敵対行為を無力化し、敵対した者さえ包容同化して共生の道を示すことです。つまり、武術で相手の敵愾心を払うのです。
こうした考えの前提には、森羅万象が一体として生成しているのだから、共に助け合いながら生きる道を創造するという神道的思想が存在します。対立状態は不自然で、共生状態こそが本来の姿だという考えです。
仲の良い夫婦や親子であっても喧嘩をするように、本来は仲の良い人々が、一時的に対立状態になることはよくあることです。しかし、それがエスカレートすると根深い対立関係になることもあります。心に対立する気持ちが生じたなら、少し自分の気を鎮めて、本来の「和する」心に戻せればよいのです。
日本武道は、「戦い」という究極の対立状態の中でさえも、共存共栄する関係に回復できるという強い信念の上に成り立っています。

人間にとって、産霊(むすび)は宇宙本来の活動の一端を担う重要な行為です。男女が結ばれて新たな生成の担い手となる子供を産むことは、家族だけではなく、社会全体、地球全体、そして宇宙全体にとって大変めでたいことで、みなで祝います。
もちろん子供を産み育てることだけが、人間の生成活動ではありません。私たちの生成活動は、形而上から形而下のいたるところに存在します。日常的なことでいえば、自治活動、教育や助成、自然環境の健全化、食べ物の生産、社会奉仕活動への参加、人々の暮らしを助けるノウハウや物づくりなど、さまざまな社会活動に関わることも生成活動の一つです。
生成活動で最も大事なことは、産霊の意志です。人間の活動は意志によって引き起こされます。その中でも、「意」を「宣(の)る」「祈り」は、人が創り出す最も強い意志エネルギーです。本来の言葉の意味は人々の祈りは社会や自然までも変える強い力です。一人ひとりが、よりよい世界を創ろうと祈ることが産霊の原点です。
たとえ平凡な人生であっても、それぞれの場所と立場で、このような産霊の祈りと活動を実践することこそが、人間として本分を尽くしたと言えるのです。
武道においても、産霊の考えが生きています。剣と剣を斬り合わせることを、「斬りむすび」と呼びます。
この発想は、斬り殺す、つまり相手を斬って殺傷するという考えとは正反対のものです。「斬りむすぶ」とは、相手の太刀のすさまじいエネルギーを、自分の太刀のエネルギーに同化し、一瞬で一体化することです。そうすると、剣は跳ね返されずに相手の剣にくっついたような状態になります。この技を「続飯(そくい)」と呼びます。続飯して一体化した相手の剣と剣を持つ相手の身体を自分の中心力でコントロールできれば勝負は決します。
ここに相手との生死をかけた戦いの中にさえ、敵味方が結び合い、共生による道と思想があるのです。
戦いは、意思と意思の対立によって生じます。人間どうしの意思のギャップが戦いを産むのです。これは、自然も同じです。気温差が大きい寒気団と暖気団が接触すれば嵐になり、海と陸のプレートにひずみが生じれば地震が発生します。
大事なのは、自然界の嵐や地震は、双方に生じたギャップを平準化・沈静化するための作用だということです。決して、寒気団が暖気団を打ち負かして勝利するとか、太平洋プレートが大陸プレートにへし折られて敗北するというものではありません。嵐のあとは大気が最も安定したよい天気になります。巨大な地震のあとは、プレートのストレスがなくなり、安定期に入ります。
そうであれば、やむなく武器を手に戦った相手であっても、そのあとは共栄共存の道を探ろうとする態度が重要です。それが武道の「むすび」の思想なのです。
武道が単なる戦闘の技術を教える格闘技と異なるのは、こうした思想が根本にあるからです。相手を殺傷し破壊するだけの戦いであれば、社会全体が荒廃してしまいます。
平和時における創造だけではなく、戦時おける創造をも求めるところに武道の精神哲学があるのです。
宇宙は一体として生まれたのだから、本来は全体が一つになって、よりよい世界を創造するため生成活動を行なうべきものであるという神道の考えがあるからこそ、武道は、敵さえ包容同化し、一体となり、共生する道を目指すことを理想とするのです。

「サムライ精神を復活せよ」の動画にドイツ語字幕を追加

「サムライ精神を復活せよ」の動画に、ドイツ語字幕を追加しました。

字幕を見る場合は、動画下の設定ボタン(ネジのマーク)で字幕言語を選んで、その横の字幕ボタンを押してください。

字幕製作はEdith Schmidtさんと渋谷順子さんです。
https://www.ann-greenvoneifel.de/

どうもありがとうございました。

以上

韴霊道場改修記念演武会終了

桃の節句の3月3日、韴霊道場の改修記念演武会を開催しました。
朝からの雨にもかかわらず、演武者約20名、見学者は60名以上の方がお出でになりました。
演武に先立ち、藤紀流2代目家元 藤紀実身さんによる舞の奉納、ブルガリア出身のEva Kritskaさんによる詩舞の奉納をしていただきました。
演武には、明治神宮至誠館門人や熊野の友好道場紀州熊野合気会鮒田道場の皆様も応援に駆けつけていただき演武を奉納してもらいました。

演武の後の武道講習会には多くの方が参加し、呼吸法をもとにした基礎稽古をしました。
皆様ありがとうございました。

今月から、毎週水曜日15:30~16:30の子供の稽古と、17:30~19:00の大人の稽古を始めます。
初心者からベテラン、子供から高齢者、男女国籍を問わず皆さんどうぞ稽古においでください。

参加募集:第2回むすびの里勉強会

3月2日、「第1回むすびの里勉強会及び懇親会」を開催しました。
地元の方達はもちろん、関東・関西・信州さらには海外からも参加してもらいました。ありがとうございました。

「第2回むすびの里勉強会」は、以下のように開催します。

日時:4月6日(土)17:00勉強会 19:00懇親会
場所:むすびの里
懇親会費:2,500円
申込こちらのフォームに入力してください。

テーマは、政治、経済・金融、医療、芸術、防衛・安全保障、地域活性化、文化・伝統、神話等広範囲に及びます。
どなたでも参加できます。

どうぞ、奮ってご参加ください。
遠くからおいでの方は、むすびの里で宿泊もできます。
申し込みの時にお知らせください。

神祀り

むすびの里には、神社が3か所あります。

私が住んでいる「おやじの館」には、荒谷家先祖代々の御霊を祀る祖霊社

韴霊武道場には、皇大神宮大麻(天照大神)、石上神宮大麻(韴霊大神)、飛鳥神社大麻(産土神々・祓戸大神)を祀る神棚

屋外に、山の大神を祀る祠

月初めの1日、供物と榊を新たに神恩感謝の祈りを捧げました。

また、今年から、飛鳥町小阪本郷の「こうじんさま」の清掃のお役をいただいたので、おつとめをしてまいりました。

早春の晴れ晴れとした空のように、清々しい気持ちの一日でした。